大森は、日本考古学の原点とも言える『大森貝塚』があり、3000年前から人が暮らしていたと言われています。中原街道と東海道を結ぶ『平間街道』が通っており、脈々と歴史が現代までつながっているロマンを感じさせますね。大森の歴史について見ていきましょう。
アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、当時列車で大森を通りがかり、崖に貝殻の堆積している層があることに気づき調査したところ、『大森貝塚』が発掘されました。
1955年には、国の史跡に指定され、当時の出土品は、現在も重要文化財として、東京大学に保存されています。
駅から5分ほど、池上通りを北に進むと「大森貝塚遺跡庭園」があり、大森貝塚について学ぶことができます。
JR東海道線『大森駅』には、「日本考古学発祥の地」の石碑があります。
現在では、埋め立てで海岸線は遠くなってしまいましたが、海苔や海産物に恵まれた海が近く、山王エリア側には高台があり、住みやすい街として発展したことが想像されます。
海苔の養殖は、浅草の漁師が伝え根付いたものです。
実際、東海道と中原街道を結ぶ平間街道が通っていましたし、関東大震災でも被害が少なかったことから、大森山王エリアに政治家、文化人が集まって来るようになりました。
当時、横浜にあったドイツ人学校も、震災を機に大森山王に移転しました。
京浜随一の遊園地『八景園』、『望翠楼ホテル』、大正から現在まで続いている『大森テニスクラブ』など、景勝地、別荘地としても発展してきたことがうかがわれます。
『ドイツ人学校』があったことで、洋館づくりの邸宅もあり、異文化の香りが漂う“山の手”な雰囲気が山王エリアには根付いていきました。
『馬込文士村』と呼ばれるほど、山王から馬込には作家達が集い、『望翠楼ホテル』で会合が開かれていました。
現在、『八景園』⇒住宅地、マンション、『望翠楼ホテル』⇒マンション、『ドイツ人学校』⇒横浜に移転…と様変わりしています。
文化的でどこか“山の手”の雰囲気が漂うイメージは、JR『大森駅』西側の山王から馬込エリアに感じることができます。
海側には、大森競艇場、映画館や温泉施設のある平和島があります。
昭和42年(1967)、28年の歳月をかけて竣工した人工島です。
太平洋戦争中は一時工事が中断、捕虜収容、戦犯収容などに使われた経緯から、平和への願いを込めて『平和島』とされました。
また、JR『大森駅』東側には、いすゞ自動車、日立製作所などの大企業オフィスなどがあり、大型の商業施設もそろっていて、居酒屋なども多く、昭和な雰囲気の路地も残っているところもあり、下町の雰囲気を感じることができます。